伊勢神宮に奉納されている熨斗鰒の由来が、「日本書紀」(720年)に記されています。 それによると、天照大神の命によって倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢に御鎮座を終えたのち、 志摩の国崎(くざき)で海女から差し出された鰒(あわび)にたいそう感動し、伊勢神宮への献上を求めました。 海女は、これに応えていわく「承知しました。生のままでは腐りますので、薄く切って乾燥させましょう」 ——これが、以後2000年にわたり、三重県鳥羽の国崎町で古式に則り作られている熨斗鰒の始まりです。 現在も、年に数回伊勢神宮に奉納されております。
熨斗鮑にまつわる古い伝承は、ほかにもあります。「肥前国風土記」(8世紀)には、
征服された辺境の民が命乞いをするために熨斗鮑に模したものを木の皮で作ってみせるという話、
平城宮跡出土の木簡(722年)には、安房国(あわのくに)から熨斗鮑が物納されたことが記されています。
時代は下り、鎌倉時代の「吾妻鏡」にも、熨斗鮑が年貢として納められたという記述があります。
美味で栄養価の高い熨斗鮑は、古(いにしえ)の時代から長きにわたり、
不老長寿を願う最上級の贈答食品として用いられていたのです。
薄く削ぎ乾燥させた熨斗鮑。現在も三重県国崎で、伊勢神宮への奉納品として作られている。
実際に、鮑は水でもどして煮て食べれば精がつくというのですから、最強の保存食でもありました。
それゆえ、鎌倉〜戦国時代には、熨斗鮑は武運長久(ぶうんちょうきゅう)の縁起もかつがれ、
しばしば陣中見舞いの食物として贈られるようになりました。当時の戦国武士たちの古い書状には、
戦勝祈願で千本、二千本の熨斗鮑が贈られたことが記されています。
一方で、熨斗鮑は出陣帰陣の儀礼でも使われるようになりました。
“敵を打ちのばす”という縁起をかつぎ、出陣の膳では〝敵を討って、勝って、喜ぶ〟にかけて、
三方(供物用の台)に載せた打ち(熨斗)鮑、勝ち栗、昆布を順につまみながら三度杯を酌み交わします。
帰陣の祝膳では、打ち鮑を熨斗鮑として配置を替え、勝ち栗、熨斗鮑、昆布と並べて“勝って、のして、喜ぶ”
といっそうの威勢を示す意を表したといいます。これを「式三献の儀(しきさんこんのぎ)」といいます。
戦国〜室町時代は、保存食としてだけでなく戦の必勝祈願に熨斗鮑が用いられた。
「式三献の儀」は、室町時代の武家社会で確立した「礼法」のなかに、正式な儀礼作法として定められています。
その後、熨斗鮑はさらに多彩な儀礼の場面で、祝意を表すシンボルになっていきました。
熨斗鮑を作るときの「伸す」という行為が、大切な人の寿命や慶事における喜ばしさが末長く続くように、
あるいは身代や家運がますます延べる(のべる)ようにと、祈願する縁起に結びつき、儀礼化していったのです。
現在にも引き継がれている「結納」はその一つです。平安時代の貴族社会で行われていた習慣が、
室町時代になって武家の婚礼制度として確立し、結納の式では二人の未来とともに両家が幾久しく栄えるようにとの願をかけて、
熨斗を和紙に包んだ「長熨斗」が三方に載せて飾られるようになりました。
ちなみに、結納が一般庶民の間に広まるのは、明治時代まで待たなくてはなりません。
熨斗鮑は、祝い事の儀礼に欠かせないものとなる。結婚式の「結納」はその典型。
江戸時代になるとようやく、熨斗鮑を贈答品に添えて祝意を示すという使い方が、
記録に見えるようになりました。江戸時代中期、故実家の伊勢貞丈が書いた
「貞丈雑記(ていじょうさっき)」には「進物にのしを添る事」として、
古にはなかったこのしきたりが、当世(江戸中期)には定着し、
伊勢家では熨斗鮑の包み方を京都将軍家の庖丁人、大草家(おおくさけ)の包形にならうと記されています。
こうして、白い和紙に赤く染めた和紙を重ね合わせ、束ねた熨斗鮑を包んで水引で止め結んだものが、
その後時間をかけて、いまの「折熨斗」へと変化していきます。
柳田國男は著作「のしの起源」(1938年)で、贈り物に“熨斗をつける”
ということの起こりは正確にはわからないと書いていますが、少なくとも江戸時代末期には、
贈答文化が広く社会に浸透するとともに、民衆間にも贈答品に“熨斗をつける”習慣が根づいていたようです。
質素な家では、高価な熨斗鮑に代わる生饌として、サザエ、昆布、ウミタケのほか、
布海苔や魚の尾、鳥の羽までもが用いられたといいますし、
ひょっとしたらすでに、「折熨斗」が登場していたかもしれません。
明治時代に入ると経済活動が盛んになり、商売の慣習にも変化が起きました。
年末年始のご挨拶として得意先に渡す品に「熨斗(祝儀)袋」が使われるようになったのです。
また「折熨斗」も、いよいよ一般的に使われるようになりました。
当時、「折形」といって贈答品を紙で包む作法を身につけることが女性の高い教養の一つとされ、
高等女学校では必須科目となるほど。熨斗袋も折熨斗も手づくりされる一方で、
めざましい印刷技術の発達によって、デザインされた多彩な市販品も出回り、“熨斗をつける”ことはさらに一般化していったのです。
現在、「折熨斗」はそのほとんどが祝儀袋で使われていますが、
祝儀袋がいつ頃から使われるようになったのかは、はっきりとしません。
一説には、先の大戦で、出征時の祝儀に使われたことが一般化するきっかけだったという見方もありますが、
慶事のお祝い金や弔事の香典など現金を贈ることは、日本では昔から行われてきた習慣でした。
戦後、日本は高度経済成長を遂げていくなかで、冠婚葬祭だけでなくさまざまな慶事が盛んに派手になっていきました。
バブル期前後を頂点に結納市場は活況を呈し、結納品の「熨斗鮑」も豪華なものが好まれたそう。
熨斗袋もデザイン化がすすみ、派手なものに人気が集まりました。
そして熨斗袋についている「折熨斗」もまた、色柄や大きさ、デザインで時流の影響を受けました。
贈答品に添えられていた熨斗鮑は、形を変えて祝儀袋の「折熨斗」に引き継がれている。
現代は、ライフスタイルが急速に多様化し、冠婚葬祭も簡素化の傾向にあります。
一方で、お祝い事やパーティーがより気軽でカジュアルになっていくなかでも、
贈り物をやりとりする機会は必ずしも減っているわけではないようです。
プレゼントという形だけでなく、正式な慶事のときはもちろん、
少しあらたまって喜びの気持ちや感謝の気持ちを伝えたいときには、
熨斗が施された熨斗(祝儀)袋やポチ袋が活躍します。
ただ、少し残念なのは紙で折られた「折熨斗」が印刷に取って代わられたり、
あるいは熨斗の核でもある熨斗鮑の模倣=黄色の紙が消えてしまったものがあるということです。
時代は変わります。しかし、日本人が「熨斗」に喜び祝う気持ちを託して贈り物をする文化は、消えてなくなることはないでしょう。